スカートのすそが触れる先

僕はその日、朝から夕方までのシフトだった。

台風が近づいてきていたから、帰りの雨風のことを考えて、

朝、少し早めに起きて、

いつもの電動アシストつき自転車をやめて、

電車とバスを使って職場に行くことにした。

 

職場の最寄り駅で降りると、

駅前のバス停は中高生で列ができていた。

日曜日の朝にどうして制服姿の中高生がうろうろしているのだろう、

と思ったが、ジャージ姿の子や袴姿の子もいたので、

なるほど、部活動の試合かなにかがあるのだろうと思った。

「**、どこにいるんだろうね?」

「あの前の方にいるの**じゃない?」

などと、僕の背後では友達の姿を探す女の子たちの声も聞かれる。

僕にもこんな時代があったな、と思ったが、

その数秒後に、「本当に僕にそんな時代があっただろうか」と思い直した。

うん、たぶんなかった。

僕の高校時代はわりと単独行動が多かったと思う。

休みの日に制服姿で外に出るなんていう酔狂なことはしたことがないはずだ。

 

やがてバスが来て、ドアが開いて、順番に乗りこんでいく。

20人くらい乗って僕が乗る。

僕の後ろにもまだ20人くらいいる。

とにかく中高生ばかりなので、

誰も座りそうにないシルバーシートに座ることにした。

東京の路線バスのシルバーシートは、進行方向右を向いている。

着席すると、僕の足は通路側を向くことになる。

僕の後から乗ってきた女の子たちのスカートのすそが、

僕のズボンの膝頭に触れて、

するり、さらり、と擦っていく。

 

そのとき、僕は心の中で、あーあ、とため息をついた。

理由を端的に言えば、寂しい気持ちになったからだった。

どうして寂しいかと言うと、

どうやら僕は高校生という時間に心残りがあるらしい、

ということがその瞬間に明らかになったからだった。

 

おっさんになってしまったことを嘆いているわけではない。

別にいい。おっさんでいい。

むしろ堂々とおっさんになりたい。

それにもかかわらず、心の隅っこのほうで、

「ああ、高校生っていいな」

と思っている自分が、ちょっと寂しかったのだ。

残念だと思ったのだ。

 

でもね。だからと言ってね。

「僕と契約してもう一度高校生やりなおしてよ!」って言われて、

「はーい、やりまーす!」って答えるかと言うとね?

どうだろうね? いや、やらないね。やるわけがない。

おっさんになりつつあるなかで、

だいたいのことは自分のやりたいようにできるようになって、

好きなものを好きなだけ、となっているところに、

もう一度、あんな制約だらけの生活を送れと言われても、できない。

知らんおっさんやおばさんが偉そうに指図してくる学校とやらで過ごせない。

いやどうかな。先生たちに同情しちゃうかな。

うーん、そうかもしれない。

 

あの、すべての要素が濃密な時間に、

今の僕の精神で耐えられるだろうか。

僕は即座に首を振る。

できない。

あの時間を過ごすのは一度だけで十分だ。

その一度が、どんな形であったとしても。

当時の、恐れを知らない僕でさえ、まともに乗り越えることはできなかったのだ。

 

今の僕なら器用に過ごせる?

もっと円滑な人間関係を築くことができる?

いやいやまさか。

そんなに僕は成長していない。

むしろ、少しずつ後ずさっている。

あのころの僕は、よくやったのだ。

おつかれさま、なのだ。

 

だから、女子高生のスカートのすそが僕の膝を触れても、

僕は「あーあ」とため息をつく必要はない。

もっと胸を張っていい。

僕は僕なりに、高校生活を過ごした。

いろんなものに耐えることはできなかったけれど、

やり過ごすことは、できたのだ。

それなりにがんばったんだよ、たぶん。

だからもう、その話はおしまい。

前を向いていこう?

自信満々に、おっさんロードを、突き進もう?

うん、そうだね。うん、そうなのだ。

 

バスが僕の職場の最寄りのバス停に着こうとするころ、

僕は清々しい気分になっていた。

たまには電車とバスで通うのもいいかも。

そう思った瞬間に、

でも、自転車だと混雑もないし、なによりひとりだし、いいんだよなあ。

そんなふうに考えている自分がいて、

それはやっぱり、しかたのないことなのだった。

中庭

現代文の授業の時間、教室の窓からずっと中庭を見ていた。

中庭に、男の子と、女の子がたたずんでいる。
男の子は、校舎の白い壁に寄りかかって立っている。
女の子は、そのとなりでしゃがんでいる。
ふたりは、話しているようには、見えない。
なんだろう、あのふたり。
私は、持っているシャープペンシルを机の上に広げた問題集に挟んで、
中庭のふたりを、じっと眺めた。

うすい水色。
女の子のパンツが見えている。
あの子は、全校生徒に向けて、
自分のパンツを公開しちゃっているのだ。
でも、この時間、あの子を見ている生徒なんか、私くらいしかいないだろう。

そのうちに、男の子が前髪を触りながら、なにか言った。
男の子は、自分の右手の甲を眺めながら、つぶやいたように見えた。
女の子は、小さくうなずいた。
そして、スカートの膝と膝に挟まれた部分をぐっと押しこむ。
灰色のスカートが、うすい水色を覆って隠す。

女の子は立ち上がって、男の子のとなりに立つ。
お互いに目は合わせない。
スカートのお尻の部分を払いながら、女の子はちらりと男の子の左手を見る。
男の子の両の手は下ろされていて、身体の両脇にすとんと落ちている。
女の子は男の子から視線を逸らして地面を見てから、
中庭にある唯一の木、大きなケヤキの木を見上げた。
その瞬間に、女の子は早口でなにかをつぶやいた。

男の子の表情が、少し緩くなった、気がする。
遠いから、表情まではなかなか読み取れないけれど、でも、
男の子はそのとき、優しい顔をしたと思う。

途端、女の子は歩き出す。
歩いて歩いて、中庭を出て、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下に入って、
そこから校舎に入ってしまう。
その歩く背中は、きりりとしている。

男の子は、しばらくそのまま立っている。
同じところに、たたずんでいる。
やがて、右手をポケットに入れて、携帯電話を取り出す。
携帯電話を開いて、一瞬だけ、眺める。
白い携帯電話はすぐに閉じられる。そしてまた、ポケットに収まる。

男の子は、その場に立ったままだ。
男の子は、じっとしている。
中庭に響く、かすかな物音、校舎の中に、数百人の生徒たちと教員たちがいて、
それらが起こす、わずかな振動。それによってそよぐ風を感じようとするように。

きみのことが好きだよ。
私はそう言う。小さく小さく、言う。教室のだれにも聞こえない声で。
でももしかしたら、男の子には届くかもしれない。
男の子はまだ、じっとしている。
地面にはめられたブロックの規則正しさをなぞるように見つめながら。
私は中庭を、眺めている。

まよなかの庭で

くらくて靴が見つからないから、お兄ちゃんのビーチサンダルをはいて。
家族のみんなに見つからないように、気づかれないように、
そうっと玄関のドアを開ける。

ドアを開けると、ぶわ、と風が吹きこんできて、どきりとする。
でも、その風が強かったのは一瞬で、
おだやかな、ぬるくて、肌にふれてくるのが、気持ちいいような、くすぐったいような、
湿った夜の風に変わる。
夜なのに、こんなに外はあたたかいんだ。
クリーム色のワンピースの裾を押さえながら、わたしはまよなかの庭に飛び出す。

れんが色のタイルのポーチを歩くと、ビーチサンダルはぱたぱたと音をたてる。
そうだった、と気がついて、後ろをふりかえって、玄関の白いドアを閉める。
とたんに、すこし、また風が強くなったような気がした。

ポーチから下りて、芝生の上に立つと、月の明かりがわたしを照らした。
月が大きく見える。空が、月のまわりだけ、濃い青をしている。
ほかのところは、みんなくろいのに。月のまわりだけ、色がちがう。
そして、その真ん中に白い月が、明るい。
月はわたしを見下ろしている。
わたしの肌も、髪も、ワンピースも、ビーチサンダルも、ぜんぶ白くなりそうなくらい、
明るく明るく、照らしている。

わたしは立ったまま、月を見ている。
あたたかな風が、わたしのすこし長めの前髪をゆらして、
わたしの見える世界にかげをつくる。
そのかげは、くろい。
かげは、わたしの足元にもできていた。月明かりにまぶしい脚の、すぐ後ろに、かげ。
わたしはあんまり、それを見ないようにしよう、と思う。

月の明かりの中で、わたしはクローバーをさがしたり、
みどりのかえるをつついたり、
きのうの雨でじょうろにたまった水を、花にかけたりする。
まよなかの庭で、わたしは元気で、みんな眠っていて、月は明るくて、風もあたたかくて。
そして、ずっとにぎっている友だちの手のひらみたいに、
しめっていて、でも、それがうれしくて。
だから、これからなんども、わたしはまよなかの庭に出るんだ。
お父さんに見つかる日がくるまで、ずっとね。